THEME 10

劇中劇
——芝居の中の芝居が、いちばん本当のことを言う

ハムレット / 夏の夜の夢 / じゃじゃ馬ならし / テンペスト

シェイクスピアは、芝居の中でよく芝居をやる。ハムレットは城に来た旅役者に一席打たせ、『夏の夜の夢』の職人たちは公爵の婚礼で素人芝居を披露し、『じゃじゃ馬ならし』にいたっては、本編まるごとが酔っ払いに見せるための出し物だ。舞台の上に、もうひとつ小さな舞台が組まれる。役者が、役者を演じる役を演じる。

考えてみれば、これは危険な手品だ。芝居の中に「芝居」が出てきた瞬間、観客は思い出してしまう——そういえば、いま見ているこれも芝居だった、と。せっかく作った夢から観客を覚ましかねない仕掛けを、シェイクスピアはなぜ何度も使ったのか。今回は代表的な4つの劇中劇を、用法の違いで並べてみたい。先に言えば、この仕掛けはどれも、外側の芝居では言えない本当のことを言うために置かれている。

ハムレット——芝居は嘘発見器になる

いちばん有名な劇中劇は、やはり『ハムレット』の「ゴンザーゴー殺し」、通称「ネズミ捕り」だろう。亡霊の告発(THEME 06)だけでは、叔父が父を殺したと確信しきれないハムレットは、城に来た旅役者たちに、父殺しそっくりの筋の芝居を上演させ、観劇中の叔父の顔色を観察することにする。計画を立てた独白の締めくくりが、この宣言だ。

The play 's the thing / Wherein I'll catch the conscience of the king.

芝居こそ、その仕掛けだ。芝居で、王の良心を釣り上げてみせる。(拙訳)

『ハムレット』第2幕第2場

面白いのは、ここでハムレットが芝居に与えている役割だ。尋問でも拷問でも引き出せない真実を、作り話が引き出せると、彼は確信している。目の前の事実を並べられた人間は否認できるが、他人の物語として自分の罪を見せられた人間は、顔が勝手に白状してしまう——実際、クローディアスは毒を注ぐ場面で立ち上がり、上演は中断され、ハムレットは確信を得る。嘘(フィクション)が真実の検出器になる。このサイトで繰り返し見てきた「真実はそのままの姿では流通しない」の、これはいちばん鮮やかな実演だと思う。

ついでに言えば、ハムレットは上演前、役者たちに演技論まで講義している。芝居の目的は「自然に向かって鏡を掲げること」だ、と。父の仇討ちの真っ最中に演劇論を語り出す王子——この人が演技というものに取り憑かれていることは THEME 01 で書いたけれど、劇中劇はその取り憑かれの実践編でもある。

夏の夜の夢——世界一下手な芝居が、観客の秘密を明かす

作品メモ 『夏の夜の夢』——アテネの公爵の婚礼を祝おうと、機屋のボトムら職人の一座が悲劇『ピラマスとシスビー』の稽古に励む。親に引き裂かれた恋人同士が、壁の隙間ごしに愛を語り、ライオンに驚いて逃げ、行き違いから二人とも自害する——という筋を、彼らは大真面目に、そして壊滅的に下手に上演する。

ネズミ捕りの対極にあるのが、この『ピラマスとシスビー』だ。こちらの劇中劇は誰の罪も暴かない。ただ、ひたすらに下手なのだ。壁の役の男が指を広げて「隙間」を表現し、ライオン役は貴婦人を怖がらせないよう「私はライオンではありません、指物師です」と自己紹介し、月光の役は提灯を掲げて立っている。芝居の約束事が全部、真心こめて破壊されていく。

ところで、この筋書きに見覚えはないだろうか。親に引き裂かれた恋人たちの、行き違いによる二重の自害——『ロミオとジュリエット』とほぼ同じ話なのだ。二作はほぼ同じ時期に書かれたと考えられていて、シェイクスピアは同じ物語を、片方では時代を代表する悲劇に、もう片方では劇中の笑劇に仕立てたことになる。物語の中身ではなく、包み方がジャンルを決める——COLUMN 01 で見たあの5日間の悲劇は、包み紙を替えれば宴会の余興にもなる。

では、この下手な芝居は何のために置かれているのか。ヒントは、上演を選ぶ場面の公爵シーシアスの台詞にある。

The best in this kind are but shadows; and the worst are no worse, if imagination amend them.

この手のもの(芝居)は、最上の出来でも影にすぎぬ。最低の出来でも、想像力が補ってやれば、影より悪くはならぬのだ。(拙訳)

『夏の夜の夢』第5幕第1場

最上の芝居も影、最低の芝居も影。差を埋めるのは観客の想像力だ——つまりこの劇中劇は、演劇が観客の側の協力で成立していることの、公開種明かしになっている。壁を壁だと思ってあげる心。提灯を月だと思ってあげる心。『冬物語』のポーライナが彫像を動かす前に要求した「信じる心」(THEME 09)と、これは同じものだ。妖精に散々振り回された恋人たちが、今度は観客席で「信じる側」に座っている入れ子の可笑しさも含めて、僕はこの場面がシェイクスピアの書いた最も優しい演劇論だと思っている。

じゃじゃ馬ならし——額縁だけ残して、消えた観客

『じゃじゃ馬ならし』の劇中劇は、規模が違う。本編そのものが劇中劇なのだ。この芝居は、鋳掛屋のクリストファー・スライという酔っ払いが酒場の前で寝込む場面から始まる。通りかかった貴族が悪戯を思いつき、スライを屋敷に運び込んで「あなたは記憶を失っていた領主様です」と信じ込ませ、旅役者の一座に彼のための芝居を上演させる。その出し物が、あのペトルーチオとキャタリーナの物語——つまり僕たちが『じゃじゃ馬ならし』だと思って見ている本編だ。

Or do I dream? or have I dream'd till now?

それとも俺は夢を見ているのか?いや——今までのほうが、夢だったのか?(拙訳)

『じゃじゃ馬ならし』序幕第2場

どちらが夢か分からなくなるスライの混乱は、笑い話のようでいて、この額縁の効能をそのまま言い当てている。額縁の内側の世界は、酔っ払いを担ぐための「うそ」として上演されている——そう最初に宣言されたことで、本編の見え方が変わるのだ。THEME 02 で扱ったキャタリーナの服従スピーチが「演じられているかもしれない」と読めてしまう理由のひとつは、そもそも劇全体が演し物として額縁に入れられていることにある。

そして奇妙なことに、この額縁は閉じない。スライは序幕のあと舞台から消えて、現存する台本では二度と戻ってこないのだ。芝居が終わって酔いから覚める場面は書かれていない(類似の別テキストには帰り道の場面があると伝えられるが、シェイクスピアの台本には無い)。意図か事故かは分からない。ただ結果として、僕たち観客は「これは酔っ払いに見せる嘘ですよ」とだけ告げられて、覚める場面のないまま劇場を出ることになる。額縁の外側が閉じられないとき、外側とはつまり、客席のことになる。

テンペスト——中断された仮面劇と、世界の種明かし

最後は、劇中劇が途中で止まる場面だ。『テンペスト』第4幕、魔法使いプロスペロー(THEME 07 で「娘の恋の自作自演」を扱った人だ)は、娘ミランダとファーディナンドの婚約祝いに、精霊たちに祝福の仮面劇を演じさせる。女神が降り、精霊が舞う。ところが上演の途中、プロスペローは自分の命を狙う企みが進行中であることをふと思い出し、芝居を打ち切ってしまう。精霊たちは消え、若い二人は青ざめる。そこで彼が口にするのが、シェイクスピア全作でも指折りの名台詞だ。

Our revels now are ended. These our actors, / As I foretold you, were all spirits and / Are melted into air, into thin air ... We are such stuff / As dreams are made on, and our little life / Is rounded with a sleep.

私たちの宴は、これで終わりだ。あの役者たちは、言っておいたとおり、みな精霊で、空気の中へ、薄い空気の中へ溶けてしまった。……私たち自身、夢と同じ生地でできている。この小さな一生は、眠りで縁取られているのだ。(拙訳)

『テンペスト』第4幕第1場

慰めの台詞のはずが、とんでもない射程を持ってしまっている。消えたのは精霊の芝居だけではない、と彼は続けるのだ。雲を頂く塔も、豪華な宮殿も、荘厳な神殿も、この大きな球(グローブ)そのものも、いつかこの幻と同じように溶けて消える——「球」の原語はグローブ。この台詞が上演されていた劇場の名前が、グローブ座だ。劇中劇が消える話が、外側の芝居が消える話になり、それを上演している現実の劇場が消える話になり、世界が消える話になる。入れ子が一気に貫通して、どの層も同じ生地——夢の生地——でできていると明かされる。劇中劇の用法として、これ以上先はもう無いと思う。

並べてみて見えること——包み紙を二重にすると、包み紙が見える

整理しよう。ハムレットの劇中劇は真実の検出器だった(嘘が本当を釣り上げる)。夏の夜の夢のそれは観客の種明かしだった(芝居は信じる心で成立している)。じゃじゃ馬ならしのそれは疑いの額縁だった(本編を「出し物」に格下げして、めでたしを宙吊りにする)。テンペストのそれは世界の種明かしだった(舞台も世界も同じ生地でできている)。用法は四つとも違うのに、共通することがひとつある。どの劇中劇も、それが置かれた瞬間に、外側の芝居だけでは言えなかった一段深い本当のことを言ってしまうのだ。

このサイトの軸に引きつけて言えば、こうなる。真実はそのままの姿では流通せず、狂気や変装や冗談という包み紙が要る——それが今までの9つのテーマで見てきたことだった。劇中劇は、その包み紙をもう一枚重ねる操作だ。そして包装を二重にしたとき、初めて観客の目に映るものがある。包み紙そのもの、つまり「自分はいま芝居を見ている」という事実だ。シェイクスピアには、世界と舞台をまっすぐ等号で結んだ有名な台詞もある。

All the world's a stage, / And all the men and women merely players: / They have their exits and their entrances.

世界はすべて、ひとつの舞台。男も女も、すべてはただの役者にすぎない。それぞれに退場があり、登場がある。(拙訳)

『お気に召すまま』第2幕第7場

世界が舞台なら、客席のあなたも舞台の上にいる。劇中劇を見つめる劇中の観客たち——顔色を変える王、壁に拍手する恋人たち、夢と現の区別がつかなくなる酔っ払い——は、そのまま僕たちの似顔絵だ。シェイクスピアが芝居の中で芝居をやるたびに、鏡は一枚増える。そして合わせ鏡の奥をのぞき込んだとき、いちばん奥に映っているのは、いつも観客の顔なのだと思う。

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