THEME 06

亡霊と魔女——見える人と、見えない人
——超自然は「心の増幅器」である

ハムレット/マクベス

シェイクスピアの劇には、この世ならぬものがたびたび登場する。先王の亡霊、荒野の魔女、宙に浮かぶ短剣、宴席に座る血まみれの客。

ここで注目したいのは、「幽霊は実在するか」という問いではない。シェイクスピアの超自然には、それより面白い特徴がある。誰に見えて、誰に見えないかが、場面ごとに細かくコントロールされているのだ。同じ亡霊が、ある場面では複数人に見え、別の場面では一人にしか見えない。この「見える/見えない」の設計を追いかけると、シェイクスピアが超自然を何のための装置として使っていたかが見えてくる。

前提——亡霊は、当時ホットな「論争テーマ」だった

まず前提から。シェイクスピアの時代、亡霊はただの怪談ネタではなく、神学論争の真ん中にいた。カトリックの世界観では、死者の霊は煉獄(天国と地獄の中間で罪を浄化する場所)から現世に戻ってくることがありえた。ところが宗教改革後のプロテスタント・イングランドは、煉獄の存在を公式に否定した。すると理屈の上で、死者の霊は戻って来られないことになる。では人々が見たと言い張る「亡霊」の正体は何か——プロテスタント神学の答えは、人間をたぶらかすために死者の姿を借りた悪魔かもしれない、だった。

魔女も同じで、これは遠い迷信ではなく現在進行形の社会問題だった。イングランドでもスコットランドでも魔女裁判で実際に人が処刑されており、『マクベス』上演の少し前に即位したジェイムズ一世に至っては、魔女研究の本『悪魔学』を自ら書いた王だ。つまり当時の観客にとって、舞台の亡霊や魔女は「いるわけないもの」ではなく、本物か、悪魔の偽装か、心の病かをめぐって、大真面目に議論されていたものだった。シェイクスピアは、この論争の曖昧さをそのまま劇の設計に使っている。

ハムレットの亡霊——皆に見えて始まり、一人にしか見えなくなる

ハムレット

作品メモ THEME 01の主役ハムレット。デンマークの城壁に、亡き先王そっくりの亡霊が夜ごと現れる。亡霊は王子ハムレットに、自分は弟クローディアスに毒殺されたと告げ、復讐を求める。ハムレットの「狂ったふり」は、ここから始まる。

『ハムレット』の亡霊の設計は、二段階になっている。ここが実に巧妙だ。

第1幕の亡霊は、複数の人間に見える。最初に目撃するのは見張りの兵士たちで、次に学者のホレイシオ、それからハムレット本人だ。つまり劇の冒頭で、観客は「これはハムレットの幻覚ではない」という証拠を、これでもかと見せられる。幽霊を信じない懐疑派として登場したホレイシオが青ざめて認める、という念の入れようだ。それでもハムレットは、亡霊の正体を疑う。当時の神学論争そのままに。

Angels and ministers of grace defend us! / Be thou a spirit of health or goblin damn'd ... / Thou comest in such a questionable shape / That I will speak to thee.

天使たちよ、恵みの御使いたちよ、我らを守りたまえ! おまえは救いの霊か、それとも呪われた悪鬼か。……問いかけずにはいられない姿で現れたからには、話しかけるぞ。(拙訳)

『ハムレット』第1幕第4場

父の姿をしているが、父の霊とは限らない。悪魔が自分を地獄に突き落とすため、父の姿を借りて復讐をそそのかしているのかもしれない——ハムレットが復讐をすぐ実行できない理由のひとつは、この神学的な疑いだ。彼が劇中劇で王の反応を試すのは、亡霊の証言の裏取りなのだ(タイトルどおり、演技で真実を暴こうとするわけだ)。

ところが第3幕、母の寝室の場面で、設計が反転する。母を責め立てるハムレットの前に亡霊が再び現れるが、今度は母には見えない。息子が虚空に向かって話すのを見て、母は錯乱したと確信する。

HAMLET: Do you see nothing there? / QUEEN: Nothing at all; yet all that is I see.

ハムレット「あそこに何も見えないのですか」 王妃「何も。でも、そこにあるものなら全部見えています」(拙訳)

『ハムレット』第3幕第4場

皆に見えた亡霊が、なぜここでは一人にしか見えないのか。母の罪は浅いから見せられないのだ、という神学的な説明も可能だが、演劇の効果として見ると意味は明白だ。この場面の観客は、「亡霊は実在する」という第1幕の証拠と、「ハムレットにしか見えていない」という目の前の光景に、同時に直面させられる。実在の亡霊と、心が生む幻影のあいだの線を、劇はここで意図的に踏み消しているTHEME 01で見た「狂ったふりはどこまで演技か」という問いと、「亡霊はどこまで実在か」という問いが、この寝室で重なり合うのだ。

マクベスの短剣と亡霊——見えるものが、罪の段階を教えてくれる

マクベス

作品メモ THEME 01にも登場した『マクベス』。武将マクベスは荒野で三人の魔女に出会い、「いずれ王になる」と予言される。予言に背中を押されたマクベスは王を暗殺して王位を奪うが、返り血は彼の心を蝕み始める。共犯の親友バンクォーも、やがて刺客に殺される。

『マクベス』は、超自然の「見える/見えない」を段階的に使い分けた作品だ。並べてみると、ほとんど診断書のようになっている。

まず魔女は、二人に見える。荒野で予言を聞くのはマクベスとバンクォーの二人で、互いに「おまえにも見えたか」と確認し合う。つまり魔女は幻覚ではない、この劇世界の実在だ。だが面白いことに、同じ予言を聞いた二人の反応は分かれる。バンクォーは冷静に警告する。

The instruments of darkness tell us truths, / Win us with honest trifles, to betray's / In deepest consequence.

闇の手先どもは、我々に真実を語ることがある。些細な本当のことで信用させておいて、いちばん深いところで裏切るのだ。(拙訳)

『マクベス』第1幕第3場

魔女は嘘で人をだますのではない。本当のことで人をだます。実際、魔女の予言はすべて的中する。マクベスは王になり、最後の予言群も文字どおりには全部正しい。魔女がやったのは、マクベスの中にすでにあった野心に、予言という形を与えたことだけだ。決断も実行も、全部マクベス自身がやった。超自然が運命を強制したのか、心の中の欲望を映しただけなのか——ここでも線は踏み消されている。

次に、暗殺の直前。マクベスの目の前に短剣が浮かぶ。これは、本人も最初から半分幻覚だとわかっている

Is this a dagger which I see before me ... ? / A dagger of the mind, a false creation, / Proceeding from the heat-oppressed brain?

目の前に見えるこれは、短剣か。……それとも心の生んだ短剣、熱に浮かされた脳がこしらえた偽物か。(拙訳)

『マクベス』第2幕第1場

「心の短剣(a dagger of the mind)」——本人が自分で診断を下している。これは殺意が見せている幻だと。それでも短剣は消えず、柄をマクベスのほうへ向けて、王の寝室への道を先導する。見えているものが幻だと知りながら、その幻についていく。犯行前夜の心理描写として、これ以上のものを僕は他に知らない。

そして犯行後。戴冠の祝宴に、刺客に殺させたばかりのバンクォーの亡霊が現れ、マクベスの席に座る。今度はマクベスにしか見えない。満座の中、王が空席に向かって叫び出す。

Thou canst not say I did it: never shake / Thy gory locks at me.

俺がやったとは言わせんぞ。血まみれの髪を、俺に向かって振るな。(拙訳)

『マクベス』第3幕第4場

「俺がやったとは言わせんぞ」——誰も何も言っていないのに、この叫び自体がほとんど自白だ。妻は必死で取り繕い、客たちに「昔からの持病です」と言い訳しながら、夫に小声で吐き捨てる。「それはあなたの恐怖が描いた絵です」と。魔女(二人に見える)→短剣(本人も幻と自覚)→亡霊(一人にだけ見えて、自覚もない)。超自然の「見え方」が、そのまま罪の進行度のメーターになっている。外の世界に実在した超自然が、罪を重ねるごとに心の内側へ引っ越してくるのだ。

並べてみて見えること——超自然は、心の音量を上げる装置

並べ直してみる。ハムレットの亡霊は、皆に見える実在として始まり、一人にしか見えない何かへと変わった。マクベスの超自然は、二人に見える魔女から、本人だけの短剣へ、自覚なき亡霊へと、段階的に内面化していった。どちらの劇でも、超自然は「実在か幻か」の答えを出さないまま、実在と幻のあいだの線を行き来している。

この曖昧さは、書き損じではなく設計だと思う。当時の観客席には、亡霊を信じる者、悪魔の偽装と考える者、心の病と見る者が混在していた(前提で見たとおり、それが時代の論争だった)。シェイクスピアの亡霊は、そのどの解釈でも成立するように書かれている。信心深い客には超自然劇として、懐疑的な客には心理劇として、同じ場面が同時に機能する。客層の全員を取りこぼさない、恐るべき興行的設計でもある。

その上で、機能だけを取り出せば、シェイクスピアの超自然がやっていることはひとつだ。登場人物の心の中で最も大きく鳴っているものを、舞台の上に見える形で置く。ハムレットの亡霊は、父の死への疑いと復讐の義務を。短剣は殺意を。バンクォーの亡霊は罪悪感を。マクベス夫人が夢の中で洗い続けた血の染み(THEME 01)と、宴席のバンクォーは、同じものの別バージョンだ。超自然とは、心の音量を観客に聞こえるところまで上げる増幅器なのだ。

だから、シェイクスピアの幽霊は今も怖いのだと思う。幽霊を信じない現代の観客が観ても、この劇たちは少しも古びない。増幅器が拾っている音源——疑い、野心、罪悪感——のほうは、実在を疑う余地がないからだ。亡霊は消えても、亡霊を見てしまう心は、400年前から一度も廃れていない。

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