偽りの死はなぜ効くのか
——「死んで、生きなさい」の劇作術
ロミオとジュリエット / から騒ぎ / 冬物語 / ヘンリー四世・第一部
シェイクスピアには、妙に繰り返される筋の仕掛けがある。登場人物を「死んだことにする」のだ。ジュリエットは仮死の薬を飲み、『から騒ぎ』のヒアローは偽りの葬式を挙げられ、『冬物語』のハーマイオニーは16年間死んだことにされ、『シンベリン』のイモージェンも薬で仮死に落ちる。戦場では、フォルスタッフが自主的に死んだふりをする。一度や二度ではない。使い回しと言われても仕方のない頻度だ。
なぜこんなに繰り返すのか。「便利な筋の道具だから」で済ませることもできる。でも並べて読み直すと、この道具には一貫した効能書きがあって、しかも喜劇で使うか悲劇で使うかで、正反対の結果を出すように設計されていることが見えてくる。今回は、この「偽りの死」という薬の成分を調べてみたい。
ジュリエット——処方は完璧だった。届かなかったのは説明書だ
親の決めた結婚が三日後に迫り、夫は追放中。詰んだ盤面を前に、ロレンス修道士が差し出す解決策が、42時間だけ死んだように見える薬だ。
And in this borrow'd likeness of shrunk death / Thou shalt continue two and forty hours, / And then awake as from a pleasant sleep.
この借り物の、縮んだ死の姿のまま、おまえは四十二時間を過ごす。そして、心地よい眠りから覚めるように目を覚ますのだ。(拙訳)
『ロミオとジュリエット』第4幕第1場
注目したいのは、この計画の設計思想だ。ジュリエットは説得でも駆け落ちでも家出でもなく、いったん「物語の外」に出ることを選ぶ。死んだことになれば、パリスとの結婚も、両親の命令も、彼女を縛るすべての筋書きが停止する。偽りの死は、身動きの取れなくなった物語の、いわば非常口なのだ。
そして計画は——薬の部分だけなら——完璧に成功する。彼女は死んだと信じられ、埋葬され、時間どおりに目覚める。破綻したのは薬ではなく、情報のほうだ。種明かしを届けるはずの手紙が疫病の検疫で止まり、ロミオは「本当の死」の報せだけを受け取る。墓所で彼が口にする台詞に、シェイクスピアは残酷な仕掛けを埋め込んでいる。
Death, that hath suck'd the honey of thy breath, / Hath had no power yet upon thy beauty.
死はおまえの息の蜜を吸い尽くしたというのに、その美しさには、まだ手を出せずにいる。(拙訳)
『ロミオとジュリエット』第5幕第3場
美しすぎる、まるで生きているようだ——と、ロミオは正解を口にしながら毒をあおる。観客は彼女が生きていると知っているから、この場面は世界一有名なすれ違いになる。偽りの死という装置は、種明かしの共有相手を一人でも欠くと、本物の死を製造してしまう。悲劇側の用法は、この「説明書の不達」で駆動している。
ヒアロー——「失われてみると、途端に値をつり上げる」
祭壇で名誉を打ち砕かれたヒアローに、フランシス修道士が出す処方箋が、またしても偽りの死だ。「お嬢さんは死んだ、と公表しなさい」。ここでシェイクスピアは、ロレンス修道士には言わせなかった効能の理論を、修道士自身の口から語らせている。
For it so falls out / That what we have we prize not to the worth / Whiles we enjoy it, but being lack'd and lost, / Why, then we rack the value. ... Come, lady, die to live.
人というものは、手の中にあるあいだは、その値打ちどおりに尊びはしない。だが欠けて、失われてみると、途端に値をつり上げるのだ。……さあ、お嬢さん。生きるために、死になさい。(拙訳)
『から騒ぎ』第4幕第1場
「死んで、生きなさい(die to live)」。偽りの死の効能が、ここまではっきり言語化されている台詞はないと思う。死の報せは、残された者の中で価値の再計算を強制的に走らせる。生きているヒアローがいくら無実を叫んでも、クローディオの耳には届かない。でも「死んだヒアロー」は、彼の記憶の中で勝手に無実に戻っていく。実際、真相が割れたあとのクローディオは墓前で哀悼の儀式を捧げ、ヒアローは「別人の花嫁」としてベールの下から再登場して、式をやり直す。
気づくことがある。ジュリエットに薬を出したのも、ヒアローに死を処方したのも、修道士だ。魂を扱う職業の人間が、二つの劇で同じ荒療治を選んでいる。説教や告解では、人の心の値付けは変わらない——死の擬態だけがそれを変える、と言わんばかりに。教会が舞台監督を引き受けたとき、この装置は動き出す。そして『から騒ぎ』が喜劇でいられたのは、種明かしの情報網が最後まで切れなかったからにすぎない。手紙が一本止まれば、ヒアローはジュリエットだった。
ハーマイオニー——16年ものの偽りの死と、彫像の演出
『冬物語』は、この装置の最長記録だ。夫レオンティーズの嫉妬妄想で裁判にかけられ、幼い息子の死の報せに倒れたハーマイオニーは、「死んだ」と告げられて舞台から消える。観客までもがそれを信じたまま、劇は16年飛ぶ(この夫婦については THEME 02「結婚は悲劇なのか」で詳しく書いた)。そして終幕、後悔の16年を生きた王の前に、亡き妃の「彫像」が披露される。
この彫像の場面は、偽りの死の解除手順を儀式として見せる、シェイクスピア唯一の場面だと思う。演出家はポーライナ。彼女は幕を引く前に、観客(劇中の、そして客席の)に条件を出す。
It is required / You do awake your faith.
求められることは、ひとつだけ。あなたがたの信じる心を、目覚めさせることです。(拙訳)
『冬物語』第5幕第3場
信じる心を目覚めさせよ——そして音楽が鳴り、彫像が動き出し、レオンティーズが触れる。
O, she's warm! / If this be magic, let it be an art / Lawful as eating.
ああ、温かい!これが魔法だというのなら、魔法を、食事と同じくらい罪のない技と呼ぼうではないか。(拙訳)
『冬物語』第5幕第3場
ヒアローの偽装が数日、ジュリエットの仮死が42時間。ハーマイオニーの16年は桁が違う。なぜそんなに長いのか。フランシス修道士の理論に戻るなら、答えは単純で、クローディオの再計算は数日で済んだが、レオンティーズのそれには16年かかったからだ。偽りの死は、相手の中で価値の再計算が終わるまで解除できない。ポーライナは16年間、王の悔恨の進み具合を測りながら、幕を上げる日を待っていた演出家だった。彫像が動くあの瞬間に観客が感じるものの正体は、たぶん「奇跡」ではなく、刑期満了の立ち会いに近い。
フォルスタッフ——死んだふりの側から見た種明かし
ここまでの三人は、他人に処方されて死んだことにされた。最後に、自分の意思で死んだふりをする男を置いておきたい。シュルーズベリーの戦場で、斬りかかられた瞬間にばたりと倒れて死体を演じきったフォルスタッフだ(この男とハル王子の関係は CHARACTER 01 で書いた)。敵が去ったあと、彼はむくりと起き上がって、観客に向かって堂々と弁明する。
Counterfeit? I lie, I am no counterfeit: to die is to be a counterfeit ... The better part of valour is discretion; in the which better part I have saved my life.
偽物だと?冗談じゃない、俺は偽物なんかじゃないぞ。死ぬことこそ、偽物になることだ……勇気のいちばん上等な部分は分別というやつでな、その上等な部分のおかげで、この命は助かったのだ。(拙訳)
『ヘンリー四世・第一部』第5幕第4場
死ぬことこそ偽物になることだ——屁理屈の天才の面目躍如だけれど、この逆立ちした理屈は、テーマの核心を素手でつかんでいる。彼に言わせれば、名誉のために本当に死ぬのは「人間の偽物(動かない像)」になることで、死んだふりをしてでも生き延びるほうが本物の生だ。ジュリエットたちの偽りの死が「他人の中の自分の値段」を操作する社交的な装置だったのに対し、フォルスタッフのそれは値段の市場そのもの——名誉の経済——からの退場届である。同じ「死んだふり」でも、こちらは誰の評価も再計算させない。ただ命だけが残る。喜劇の底に置かれた、この装置のいちばん正直な使い方だと思う。
並べてみて見えること——死んだことにされるのは、誰か
ところで、並べてみると気になることがある。偽りの死を割り当てられるのが、ジュリエット、ヒアロー、ハーマイオニー、イモージェンと、ほとんど女性なのだ(『尺には尺を』では男のクローディオが「処刑された」ことにされるが、あれは首のすり替えで、本人は舞台裏だ)。偶然かもしれない。でも僕には、こう見える。彼女たちはみな、他人——多くは男たち——の誤解や命令によって、自分の物語を書き換えられてしまった人たちだ。反論の声は届かない。法廷も祭壇も、彼女たちの言葉を採用しない。そのとき残されている唯一の編集手段が、物語からいったん退場してみせること、つまり偽りの死なのではないか。声を封じられた人の、最後の修辞。そう読むと、この装置の繰り返しは、使い回しというより告発に近い色を帯びてくる。断定はしない。ただ、誰が死んだふりを「させられる」側なのかは、覚えておいていい偏りだと思う。
カーテンコール——すべての死は、偽りの死である
整理しよう。偽りの死は、止まった物語の非常口であり(ジュリエット)、他人の中の価値を再計算させる荒療治であり(ヒアロー)、その再計算が終わるまで解除できない長い刑期であり(ハーマイオニー)、名誉の市場からの退場届でもある(フォルスタッフ)。喜劇と悲劇を分けるのは装置の性能ではなく、種明かしの情報が最後まで通じているかどうか、それだけだ。
最後に、いちばん大きな種明かしをひとつ。考えてみれば、舞台の上の死は、ぜんぶ偽りの死だ。ジュリエットを演じた役者も、本当に死んだリア王もハムレットも、幕が下りれば立ち上がり、拍手の中で礼をする。カーテンコールとは、毎晩くり返される彫像の場面——「信じる心」で成立していた死が解除される儀式——にほかならない。偽りの死の筋を書くとき、シェイクスピアは演劇という営みそのものの縮図を書いている。彼が最晩年に、動き出す彫像でこの装置を締めくくったのは、僕には偶然に思えない。死んだことにして、生き直す。それは彼が生涯やってきた商売の、いちばん短い定義でもあるのだから。