マクベス夫人
——「鬼にしてくれ」と祈った人は、鬼になれなかった
台詞の変化で追う、シェイクスピアで最も急峻な下降アーク
キャラクターの変化には、上昇のアークと下降のアークがある。ハル王子(CHARACTER 01)が計画的な上昇だとすれば、シェイクスピアで最も急峻な下降を描くのがマクベス夫人だ。開幕時点では、夫よりも冷酷で、夫よりも決断が速く、この暗殺計画の実質的なリーダーだった人。それが劇の後半、心を病んで舞台から退場し、最後は舞台の外で死ぬ。
THEME 01では、彼女の終着点——眠りながら手を洗う夜——だけを見た。今回はその手前、どこで何が折れていったのかを、台詞の変化を頼りに最初から追い直してみたい。先に言ってしまうと、この下降アークは「強い人が弱くなる話」ではない。最初から折れていた人が、折れていないふりを続けた話だ。
第1幕——「私を女でなくしてくれ」という祈りの意味
夫の手紙を読み終えた彼女の第一声は、分析として恐ろしく的確だ。あなたは野心はあるのに、それに必要な悪意が足りない——夫の性格への診断を下したあと、彼女は独白で、この劇でいちばん有名な祈りを口にする。
Come, you spirits / That tend on mortal thoughts, unsex me here, / And fill me from the crown to the toe top-full / Of direst cruelty!
来なさい、死の想念に仕える霊たちよ。今ここで私を女でなくしておくれ。頭のてっぺんから爪先まで、極限の残酷さで満たしておくれ!(拙訳)
『マクベス』第1幕第5場
「unsex me(私を女でなくしてくれ)」。この台詞は「女は優しいものという時代の通念を彼女が内面化している」という文脈で読まれることが多いし、それは正しい。でもキャラクター分析としては、もっと単純で重要なことを言っている。残酷さは、彼女の中に無いのだ。あるなら霊に頼む必要がない。これは強さの宣言ではなく、不足の自己申告だ。彼女は「乳を胆汁に取り替えてくれ」とまで言う——自分の中の柔らかいものを全部、外部の力で除去してほしいと。
つまりマクベス夫人の物語は、鉄の女が壊れる話ではなく、普通の心を持った人が、鬼を演じることを自分に課す話として開幕している。このサイトの軸で言えば、これも「演技」の物語なのだ。彼女が夫に授ける処世訓が、それを裏書きする。「無垢な花のように見せて、その下の蛇におなりなさい」。見せ方の技術。夫婦そろって、これから演技の話をしている。
第2幕——ほころびは、実行の夜にもう出ている
暗殺の夜。この夜の彼女は、一見、完璧に鬼の役を演じきる。怖気づいて計画を降りようとする夫を、言葉の暴力で締め上げ、実行させ、彼が取り乱して持ち帰ってきた短剣を、自分の手で現場に戻しに行く。返り血を見て震える夫への台詞が、例の「少しの水で洗い流せます」だ(THEME 01で見たとおり、この言葉はのちに全額利子つきで返ってくる)。
だが、シェイクスピアはこの完璧な夜に、小さな亀裂をふたつ、わざわざ書き込んでいる。ひとつめ。彼女は実行前に酒の力を借りたと、自分で明かす。「私を大胆にしてくれた」と。鬼に酒は要らない。ふたつめが決定的だ。なぜ自分で王を殺さなかったのか——計画の主導者である彼女が、実行だけを夫に任せた理由を、彼女はぽろりと漏らす。
Had he not resembled / My father as he slept, I had done't.
眠っているお顔が、父に似てさえいなければ、私がやっていました。(拙訳)
『マクベス』第2幕第2場
眠る王の顔に、父の顔を見てしまった。これが「unsex me」の祈りの結果報告だ。霊は来なかった。乳は胆汁にならなかった。彼女の中の柔らかいもの——人の顔を人の顔として見てしまう部分——は、除去されていなかった。彼女の「鬼」は演技であり、演技は素顔の上にしか塗れない。この一行を置いたことで、シェイクスピアは終幕の夢遊病を、突然の破綻ではなく、最初から予告された決算にしている。
第3幕——力関係の反転。夫が「独白の相手」を観客に替える
ここから、夫婦の力関係が音もなく反転していく。その反転を、シェイクスピアは説明台詞ではなく、情報の流れで描く。ここがこの劇の設計のすごいところだ。
前半のマクベスは、迷いも恐怖も全部、妻に打ち明けていた。計画の相談相手は妻であり、独白の続きは妻への告白だった。ところが王になったマクベスは、バンクォー暗殺を計画したとき、初めて妻に教えない。「知らないままでいておくれ、いちばん可愛いお前は。やり遂げたら褒めておくれ」。共犯者が、保護対象に格下げされた瞬間だ。以後、夫の相談相手は妻から観客(独白)と魔女に移り、妻は夫の心の外に締め出される。
締め出された彼女に、シェイクスピアは短い独白をひとつだけ与えている。宴の直前、ひとりの場面。
Nought's had, all's spent, / Where our desire is got without content.
何も得ていないのに、すべてを使い果たした。望みは叶ったのに、満たされないのなら。(拙訳)
『マクベス』第3幕第2場
王冠は取った。なのに空っぽだ——と、彼女は観客にだけ漏らす。そして直後に夫が入ってくると、即座に表情を作り替えて、励ます側の妻に戻る。THEME 06で見たバンクォー亡霊の宴席でも、彼女は崩れる夫を最後まで取り繕い続けた。夫の演技が崩壊していく横で、彼女だけがまだ「無垢な花」を演じ続けている。この劇で最後まで演技を守り抜いたのは、実は彼女のほうなのだ。ただしその演技には、もう観客がいない。夫は彼女を見ていない。
第5幕——演技が解けるのは、眠りの中だけ
そして、あの夢遊病の場面(THEME 01)に至る。ここでキャラクター分析として付け加えたいのは、夢遊病という装置の選択の意味だ。彼女は狂乱して取り乱すのでも、誰かに罪を告白するのでもない。起きているあいだの彼女は、最後まで崩れないのだ。崩れるのは眠りの中だけ。意志で塗り固めた演技は、意志の届かない時間にだけ、裏側を見せる。
夢の中の彼女の台詞は、全部が過去の反響でできている。「消えろ、忌まわしい染み」は、あの夜の「少しの水」の返済。「バンクォーは墓の中」は、取り繕ったあの宴の続き。彼女は毎晩、暗殺の夜を再演させられている。演技の女王への、演技という刑罰だ。そして医者が言う。「この方に要るのは医者ではなく、神に仕える者だ」——治療の対象ですらなく、彼女は舞台から消える。
死の知らせは、戦支度の夫のもとに、舞台の外から届く。夫の反応が、この夫婦の終着点だ。
She should have died hereafter; / There would have been a time for such a word.
死ぬのは、もっとあとでもよかったものを。そういう知らせにふさわしい時も、あっただろうに。(拙訳)
『マクベス』第5幕第5場
かつて心の全部を打ち明け合った相手の死に、立ち止まる時間すら残っていない。この直後に続くのが、あの「明日、また明日、また明日」——人生は歩く影、下手な役者だ、という虚無の名台詞だ。妻の死が、夫から最後の意味を抜き取っていく。二人で始めた演技は、こうして観客も相手役も失って終わる。
下降アークの設計図——彼女は「変わった」のではない
整理しよう。マクベス夫人の変化は、こう設計されている。第1幕:鬼を外注する(祈り)。第2幕:鬼を演じるが、素顔が二度漏れる(酒と、父の顔)。第3幕:演技の観客だった夫を失う。第5幕:意志の届かない眠りの中で、演技が裏返る。
つまり彼女は、劇の途中で変わったのではない。第1幕第5場の祈りの瞬間から、彼女の中身はずっと同じ——残酷になりきれない人——で、変わったのは演技を支える条件のほうだ。目的があるうちは演じられた。共犯者に見られているうちは演じられた。目的が空洞になり(「何も得ていないのに」)、観客がいなくなったとき、演技だけが慣性で続き、その負荷が眠りの中に溢れた。
ハル王子と並べると、シェイクスピアの人物変化の設計思想がよく見える。どちらも「本心と演技のズレ」を初期に一度だけ観客に見せ(ハルの独白、夫人の祈り)、あとはそのズレが人物を押し上げるか押し潰すかを、時間をかけて見せていく。キャラクターアークとは、性格が変わることではなく、性格と役割のあいだの張力が動くこと——彼女の5幕は、その定義を教えてくれる最良の教材だと思う。強がりを一枚めくれば、最初からずっと、眠る王の顔に父を見てしまう人だった。それを知って読み直す第1幕の祈りは、ほとんど悲鳴に聞こえる。