王冠の重さ——王であることは呪いなのか
——王冠と眠りの交換レート
リチャード二世/ヘンリー四世/ヘンリー五世/マクベス
シェイクスピアは、王を書き続けた劇作家だ。イングランド歴代の王を描いた歴史劇だけで10本。悲劇の主役も、リア、マクベス、クローディアスと、王だらけだ。
それだけ書いて、彼が王というものに下した診断は、驚くほど一貫している。王冠は、かぶった人間から必ず何かを取り立てる。しかも取り立てられるものが、毎回だいたい同じなのだ——眠りである。今回は、王冠と眠りの奇妙な交換レートを軸に、シェイクスピアの王たちを見ていきたい。
前提——「王の二つの体」という考え方
まず、当時の政治思想をひとつだけ。中世からルネサンス期のイングランドには、「王は二つの体を持つ」という法学上の考え方があった。ひとつは病み、老い、死ぬ自然の体。もうひとつは決して死なない政治の体——王位そのものだ。「王は死んだ、王よ永遠なれ」という一見矛盾した言い回しは、この二重構造から来ている。個人としての王が死んでも、「王」という体は次の人間に乗り移って生き続ける。
言い換えれば、王とは人間ではなく、人間がかぶらされる役柄だということだ。このサイトで追いかけてきた軸——演技と本物——が、ここでは国家の中枢に埋め込まれている。そして役柄と中身の人間がずれたとき、何が起きるか。シェイクスピアの歴史劇は、ほとんどこの実験の連作だ。
リチャード二世——「王を演じる」ことしかできなかった王
リチャード二世
リチャード二世は、シェイクスピアの王の中でいちばん「王らしい」王だ。ただし、悪い意味で。彼は王権神授——王は神に選ばれた存在であり、人間には廃位できない——を心から信じ、王としての美しい振る舞い、美しい言葉、美しい絶望に酔うことにかけては天才的だ。政治と軍事はまるで駄目なのに。
反乱軍が迫るなか、彼が浜辺で口にする台詞は、王の台詞として異様に美しい。
For God's sake, let us sit upon the ground / And tell sad stories of the death of kings.
頼むから、もう地面に座ろう。そして王たちの死についての、悲しい物語を語り合おう。(拙訳)
『リチャード二世』第3幕第2場
戦うべき局面で、彼は物語を語りたがる。そしてこの直後に続くのが、王冠の内側には死神が住んでいて、王に王様ごっこをさせて楽しんだあげく、最後に針の一突きで壁を崩す——という、有名な「うつろな王冠」の演説だ。
Within the hollow crown / That rounds the mortal temples of a king / Keeps Death his court.
王の死すべきこめかみを囲む、うつろな王冠。その内側で、死神が宮廷を開いているのだ。(拙訳)
『リチャード二世』第3幕第2場
「王とはしょせん役である」ということを、リチャードは誰よりも深く理解している。理解しているのに——いや、理解しているからこそ——役を降りることができない。廃位の場面で、彼は鏡を持って来させ、王でなくなった自分の顔を眺めて、鏡を叩き割る。王という役柄を剥がされたとき、下から出てくる素の自分が存在しない。彼は生まれたときから王を演じてきたので、役の下に人間を育てる機会が一度もなかったのだ。退位してはじめて、彼は独房で考える。「私は誰でもない者になった」と。王冠が取り立てたのは、彼の場合、自分自身だった。
ヘンリー四世——王冠を奪った男は、眠りを失う
ヘンリー四世
では、役ではなく実力で王冠を手にした男はどうなるか。ヘンリー四世は、リチャードと正反対の男だ。政治力があり、決断でき、王の役を立派に務められる。その彼が劇の後半で見せるのは、しかし、玉座の栄光ではない。不眠である。深夜、ガウン姿の王がひとり、眠りに向かって語りかける独白は、この劇のいちばん深い場所だ。貧しい若者は煤けた小屋のかたい寝床で眠れるのに、あらゆる贅沢を備えた王の寝室に、なぜお前は来てくれないのか——。
Uneasy lies the head that wears a crown.
王冠をいただく頭に、安らかな眠りは訪れない。(拙訳)
『ヘンリー四世・第二部』第3幕第1場
英語圏で「重責を負う者は眠れない」の意味で今も引用される名文句だが、文脈の中で読むと、これはただの重責の話ではない。ヘンリーの不眠には出どころがある。彼の王冠は、奪った王冠なのだ。廃位したリチャードはその後、獄中で殺されている。神に選ばれたはずの王を人間の手で引きずり下ろした、その手で今、自分は王冠をかぶっている——正統性への疑いは、反乱となって国を騒がせ続け、罪の意識となって夜ごと寝室に戻ってくる。彼は死の床でようやく、枕元の王冠を見つめながら息子に本音を明かす。この王冠が私にとってどれほど厄介なものだったか、と。そして付け加える。お前は相続でこれを得るのだから、私よりはまっすぐにかぶれるだろう、と。王冠の重さは、かぶり方の正しさで変わる——次の劇は、その検証になる。
ヘンリー五世——変装して、王という役の外に出てみた王
ヘンリー五世
ヘンリー五世は、シェイクスピアが書いたいちばん「有能な」王だ。演説で軍の士気を燃え上がらせ、劣勢の会戦に勝ち、理想の英雄王として描かれる——表向きは。だが劇のいちばん静かな場面で、この完璧な王がやることが面白い。決戦前夜、彼は変装して王をやめてみるのだ。
一兵士のふりをして兵たちの輪に混ざった王は、「王の戦争の大義は正しいのか」「死ぬのは俺たちだ」という遠慮のない本音を浴びる。THEME 03の男装ヒロインたちと同じ構造がここにもある——変装したときにだけ、聞けない本音が聞こえ、言えない本音が言える。兵と議論して一人になったあと、王は独白で、王であることの正体をこう見積もる。
And what have kings, that privates have not too, / Save ceremony, save general ceremony?
王が持っていて、ただの人間が持っていないものが何かあるか。儀式のほかに——仰々しい儀式のほかに。(拙訳)
『ヘンリー五世』第4幕第1場
王と庶民の違いは「儀式」だけ。玉座も、笏も、王冠も、ひれ伏す行列も、全部まとめて空虚な飾りであり、それらは庶民が毎晩手にしている深い眠りの足元にも及ばない——ここでも、また眠りだ。祖父リチャードは役に酔い、父ヘンリー四世は罪で眠れず、そしてこの息子は、王を「儀式という名の役」だと冷静に見切った上で、翌朝には完璧にその役を演じて歴史的勝利を挙げる。シェイクスピアの王たちの中で彼だけが健全でいられるのは、たぶん、役と自分の区別がついている唯一の王だからだ。放蕩時代に居酒屋で庶民を演じ、戦場前夜に兵士を演じた男は、王もまた演じ物だと知っている。
マクベス——王冠と引き換えに、眠りを殺した男
マクベス
王冠と眠りの交換レートを、比喩ではなく文字どおりの取引にしてしまったのがマクベスだ。彼は眠っている王を殺して王冠を得る。そして殺害の直後、返り血のついた手のまま、彼は妻に奇妙な報告をする。声が聞こえた、と。
Methought I heard a voice cry 'Sleep no more! / Macbeth does murder sleep'.
声が聞こえた気がしたのだ。「もう眠るな! マクベスは眠りを殺した」と。(拙訳)
『マクベス』第2幕第2場
「ダンカンを殺した」ではなく「眠りを殺した」。この言い換えは恐ろしく正確で、以後の劇は、この予言の律儀な履行になる。マクベスは夜ごとの悪夢に苛まれ、夫人は眠ったまま歩いて手を洗い続け(THEME 01)、宴席には眠りの中で殺されたバンクォーが座る(THEME 06)。王冠は手に入った。引き換えに、この夫婦の家から眠りが完全に消えた。ヘンリー四世の不眠が「重さ」なら、マクベスのそれは「欠損」だ。彼は王というものの中身——正統性も、儀式も、継承者も持たないまま、王冠という輪っかだけを頭に載せている。リチャード二世の言った「うつろな王冠」の中の死神に、いちばん文字どおり食い殺されたのは、この簒奪者だった。
並べてみて見えること——王冠は、かぶった人間の中身を検査する
4人の王を並べ直す。リチャード二世は、役の下に自分がいなかった。ヘンリー四世は、かぶり方の疚しさが眠りを奪った。ヘンリー五世は、役と自分を切り分けて、王冠を「勤務時間」にすることに成功した。マクベスは、中身のないまま輪っかだけ奪って、眠りごと人生を失った。
こうして見ると、王冠そのものは呪いではないのだと思う。王冠は検査装置なのだ。かぶった人間の正統性、罪、自意識、役との距離感——中身にあるものを増幅して、いちばん弱い場所から漏らし始める。そしてその漏れは、決まって夜、眠りのあたりに現れる。昼の王は儀式で守られているが、眠りは儀式が届かない、人間が「ただの人間」に戻る時間だからだ。王冠と眠りが交換されるのは、王と人間が同じ頭を取り合っているからなのだ。
最後に、劇場の話を。王を演じることが政治的にきわどい時代——現役の女王や王が客席側にいる時代——に、シェイクスピアは王の空虚も罪も不眠も書いた。それが許されたのは、THEME 05で見た道化の免許と同じ理屈で、「これは芝居です」という免責があったからだ。でも考えてみれば、「王とは演じ物である」という彼の診断が正しいなら、舞台の上の偽の王と、宮廷の本物の王の差は、思ったより薄い。うつろな王冠の演説を、本物の王権の目の前で役者に語らせる——シェイクスピアの歴史劇は、たぶん当時いちばんスリリングな見世物だった。