CHARACTER 04

クレオパトラ
——「演じすぎる女王」の最後の演出

役者から演出家へ。死を作品に変えた最終幕

ハル王子は上昇のアーク、マクベス夫人は下降のアーク、シャイロックは幕の外で進むアーク(CHARACTER 03)。4人目のクレオパトラのアークは、そのどれとも違う。上がりも下がりもしないのだ。僕の読み方では、彼女の5幕は舞台の役者だった人が、最後の場面で演出家に昇格する話である。

正直に言えば、クレオパトラは困った人だ。気分屋で、平気で嘘をつき、悪い知らせを持ってきた伝令に手を上げ、海戦の真っ最中に船団ごと帰ってしまう。なのに、シェイクスピアが書いた女性の中で最も豊かな役だと評されることが多く、実際、台詞の魅力では誰にも譲らない。この「困った人なのに、目が離せない」の正体から始めたい。

日常のすべてが上演——「無限の多彩さ」の中身

作品メモ 『アントニーとクレオパトラ』——ローマの英雄アントニーは、エジプトの女王クレオパトラに溺れ、ローマの義務と地中海の快楽のあいだで引き裂かれていく。若きシーザー(オクテイヴィアス)との対立はやがて戦争になり、二人は敗れて、それぞれの死へ向かう。史実を下敷きにした後期の悲劇。

彼女の第一の技術は、相手の予想を外し続けることだ。アントニーの機嫌がよければ急に不機嫌になってみせ、彼が沈んでいれば「私は踊っています」と伝えさせる。侍女が「逆らわず、何でも合わせたほうがよいのでは」と忠告すると、「それは相手を失ういちばん確実な方法だ」と一蹴する。感情の表現がすべて、相手への効果から逆算されている。つまり、彼女にとっては日常が既に上演なのだ。

その上演の腕前を、シェイクスピアは本人の場面ではなく、意外な証人の口から語らせる。ローマ側の軍人で、皮肉屋のイーノバーバスだ。

The barge she sat in, like a burnish'd throne, / Burn'd on the water: the poop was beaten gold; / Purple the sails, and so perfumed that / The winds were love-sick with them.

あの方の乗った船は、磨き上げた玉座さながら、水の上で燃えていました。船尾は打ち延ばした黄金、帆は紫。焚きしめた香に、風のほうが恋わずらいを起こすほどで。(拙訳)

『アントニーとクレオパトラ』第2幕第2場

アントニーと初めて会った日、川を下ってきたクレオパトラの姿だ。船も帆も香も、すべてが計算された舞台美術であることに注目したい。そして、これを何年も経ってから、うっとりと再演してみせているのが、敵地ローマの醒めた軍人だということにも。彼女の上演は、いちばん陶酔しそうにない観客まで捕まえて、生涯リピーターにしてしまう。同じイーノバーバスの口から、あの決定的な人物評が出る。

Age cannot wither her, nor custom stale / Her infinite variety: other women cloy / The appetites they feed; but she makes hungry / Where most she satisfies.

年齢もあの方を萎れさせることはできず、慣れも、その無限の多彩さを色あせさせることはない。ほかの女は満たすほどに飽きさせるが、あの方は、最も満たしたその場所で、いっそう飢えさせるのです。(拙訳)

『アントニーとクレオパトラ』第2幕第2場

「無限の多彩さ」は、生まれつきの魅力の話として引用されがちだ。でも劇中の彼女を見ていると、これはほとんど技術の話だと思う。レパートリーの広い役者は飽きられない。彼女は「クレオパトラ」という演目を、毎日書き換えながら上演し続けている。

演技の代償——芝居が人を殺すとき

ただし、この技術には代償がある。効果から逆算する癖が、政治と戦争の場面で、最悪の形で発火するのだ。アクティウムの海戦。戦いの途中で彼女の船団は帆を返し、アントニーは戦場と部下を捨てて、その船を追ってしまう。そして敗戦後、怒り狂うアントニーをなだめる手段として彼女が選ぶのが、よりによって「クレオパトラ様は亡くなられた」という虚報だ。これも、相手の心を動かすための演出だった。効果は絶大で——ただし計算と真逆に出た。アントニーは自分の剣の上に倒れ込み、致命傷を負って、彼女の立てこもる霊廟に運ばれてくる。

瀕死のアントニーを前にしても、彼女は演技を完全にはやめられない。それでも、彼の死後の台詞には、初めて演出の匂いがしない行が混じり始める。世界はもう豚の餌桶と変わらない、すべての土台が崩れた——。ここから最終幕まで、観客は初めて、素顔に近いかもしれないクレオパトラを見ることになる。「かもしれない」と留保をつけるのは、彼女に関しては素顔さえ確定できないからで、僕は、それこそがこの役の書かれ方だと思っている。

最後の演出——ローマに「上演権」を渡さない

シーザーの勝利は確定し、彼の計画も見えてくる。クレオパトラを生かしてローマへ連行し、凱旋式の見世物として引き回すことだ。彼女はその未来を、恐ろしく具体的に想像してみせる。

I shall see / Some squeaking Cleopatra boy my greatness / I' the posture of a whore.

見ることになるのでしょう。甲高い声の少年役者が、娼婦の姿勢で、私の偉大さを演じてみせるのを。(拙訳)

『アントニーとクレオパトラ』第5幕第2場

この台詞のめまいがするような仕掛けは、THEME 03 を読んだ方ならすぐ気づくと思う。初演の舞台でこれを口にしているのは、まさに「甲高い声でクレオパトラを演じている少年俳優」本人なのだ。自分の劇場の上演条件を逆手に取って、彼女の恐怖に400年先まで効く現実味を与えている。そしてキャラクターの論理として読むなら、これが死の決意の核心だ。彼女が耐えられないのは、死ではない。自分の物語の上演権を、他人に——それも敵に——渡すことだ。

だから彼女の最期は、絶望の行為として書かれていない。ひとつの上演として書かれている。衣装の指定があり(礼服と王冠)、小道具があり(いちじくの籠にひそませた毒蛇)、共演者がいて(侍女のイラスとチャーミアン)、想定された観客までいる(遅れて到着するシーザー)。

Give me my robe, put on my crown; I have / Immortal longings in me. ... Husband, I come: / Now to that name my courage prove my title!

礼服をおくれ。王冠をかぶせて。私の中で、不滅へのあこがれが疼いている。……夫よ、いま参ります。その名にふさわしい者だと、この勇気で証してみせましょう。(拙訳)

『アントニーとクレオパトラ』第5幕第2場

「夫よ(Husband)」。生きているあいだ、アントニーとのあいだでこの呼び名が公に成立したことはない——彼の正式な妻は、いつもローマにいた。つまり彼女は最後の上演で、自分に新しい役をひとつ配っている。ローマの法と政治が決して与えなかった「アントニーの妻」という役を。毒蛇を胸に当てながらの台詞は「ほら、見えないの。赤ん坊が乳母を眠らせようと、乳を吸っている」。死の道具までが、母と子の穏やかな場面に演出し直されている。

そして幕切れ。遺体を発見した勝者シーザーの反応まで、彼女の演出プランどおりに聞こえる。

She looks like sleep, / As she would catch another Antony / In her strong toil of grace.

眠っているようにしか見えない。その気品の網で、もうひとりのアントニーを捕らえようとしているかのようだ。(拙訳)

『アントニーとクレオパトラ』第5幕第2場

敵将に「眠っているようだ」と言わせ、見世物にするはずだった当人を失った凱旋式は成立せず、シーザー自身の口から「アントニーと並べて、盛大に葬れ」という指示が出る。政治の勝負には完敗した人が、自分がどう記憶されるかの勝負では完勝して、幕が下りる。

演出家として死ぬということ

整理しよう。クレオパトラの張力は、「エジプトの女王」という役割と、「役者」という性格のあいだにあった。栄華の日々、その演技は魅力として機能した(無限の多彩さ)。戦争では、演技が破滅を招いた(アクティウムの帆と、死の虚報)。そして最終幕、彼女は演技をやめて素顔に戻る道ではなく、逆に振り切る道を選ぶ。役者から演出家へ。他人の脚本——シーザーの凱旋式——に出演させられることを拒否し、自分の最終場面を自分で書き、演出し、主演して退場する。

マクベス夫人(CHARACTER 02)と並べると、対照が鮮やかだ。夫人の演技は、意志の届かない眠りの中で裏返った。彼女は演技に敗れた人だ。クレオパトラは死の瞬間まで演技の手綱を離さず、死そのものを作品に変えた。シェイクスピアの登場人物で、自分の物語の幕の下ろし方をここまで完全に自分で決めた人を、僕はほかに思いつかない。「演じすぎる女王」は、最後まで演じすぎたまま——そしておそらく、それだけが彼女に残された勝ち方だった。僕たちがいまも彼女から目を離せないのは、その最終演出が、400年経った今日もまだ上演され続けているからだと思う。

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